アンパンチと「暴力で勧善懲悪を遂行する物語」:問題点と新しいエンターテイメントの可能性

1. アンパンチに関する議論

アンパンマンは子どもたちに大変人気のあるキャラクターです。
彼は、敵キャラクターであるバイキンマンを倒すのに「アンパンチ」という必殺技を使います。これについて、暴力で物事を解決することを助長していると考え、子どもに見せたくないという意見が存在します。
インターネット上の掲示板やSNSでの意見交換や、マスメディアで取り上げられることがあります。例えば、Yahooコメントではこの問題に対するコメントが数百件以上寄せられており、多くの人が興味を持っていることがわかります。

この話は、一見過保護な親が言いがかりのような議論を起こしているようにも見えます。僕もこのニュースの第一印象は「こういう事を言い出すヒステリックな人、嫌だなー」というものでした。同じ気持ちを持った昭和生まれの方は一定数いらっしゃるのではないでしょうか。

しかし、よく考えてみるとこの話は根が深く、なかなか面白いテーマではないかと感じるに至りました。

2. 僕らは「暴力で勧善懲悪を遂行する物語」を、無思考に王道だと捉えている

まず、僕の意見を先に言うと、作品は表現の自由を守られるべきでありアンパンマンはアンパンチを止める必要はないと思います。

ただ、今回ふと考えたのは、僕が子どもの頃から楽しんできたウルトラマンや仮面ライダーや戦隊ヒーローものやキン肉マン・ドラゴンボール・ワンピースといったジャンプ漫画は、押し並べて暴力をもって勧善懲悪を成し遂げる物語であり、何故か僕らが無思考にそれらを大衆向けエンターテイメントの王道と捉えている点についてでした。

「暴力で勧善懲悪を遂行する物語」は古代から存在しています。たとえば、古代ギリシャのホメロスの『イリアス』や『オデュッセイア』では、英雄アキレウスやオデュッセウスが正義のために悪と戦っています。また、日本では平安時代の『竹取物語』や『源氏物語』においても、登場人物が善悪の対立を繰り広げています。これらの物語は、社会の秩序や道徳観を示すものとして、また戦争の根底にある力や権力を利用して敵を倒すという考え方を広めるものとして存在してきました。我々人類が「暴力で勧善懲悪を遂行する物語」を楽しむようになったのは最近の話ではなく、おそらく物語を創作し始めた頃から長きにわたってその傾向を持ち続けているのだと考えられます。

だとすれば、その理由には人間の心理や社会構造が深く関わっていると考えられます。
この現象は、現実社会で抑圧された欲求やストレスを解消する手段として、暴力的な表現に対する共感や興奮が求められていることを示唆しています。社会において人々が複雑な課題に直面する中、物語の中で正義のヒーローが強大な敵を倒すという単純明快なストーリーは、視聴者や読者に対して満足感や安心感を提供することができるでしょう。

3. 「暴力で勧善懲悪を遂行する物語」の有毒性について

人間は長きにわたって「暴力で勧善懲悪を遂行する物語」によって興奮し、満足感や安心感を味わい、これを大衆向けエンターテイメントの王道だと捉えていることに問題はないのでしょうか。
この件は、暴力というhowについて「子どもが真似する」という短絡的な意見が目立っているように見えます。しかし、僕はどちらかというと勧善懲悪というwhyの方に有毒性があるのではないかと思っています。

この手の物語には、悪を象徴するような敵キャラクターが出てきます。少し対象年齢が上がると、敵キャラクターにもそれなりの事情や同情を誘う背景も描かれますが、ベーシックには彼らは徹底的に悪い存在で、ユーザーの怒りを増幅させ、多くの場合「ここまで悪いと、殺されてもしょうがない、殺すしかない」という認識を誘い、多くの場合は実際に殺されることによってユーザーの爽快感を得ています。

しかし実際の社会には、悪を象徴するような人物はほとんどいません。
当然、自分が正義だと思ったとしても他人を殺してはいけません。そもそも日常において自分が正義で他人が悪だと感じた時点で、恐らくその人は何かを間違っています。
歴史上最も残酷だった人間の多くは、自分が正義だと確信し、他者を悪だと確信しています。大人になれば誰でもわかることですが、実際の社会には正義側の人間と悪側の人間などほぼ存在しません。

例えば、大人が社会で生きていく中で出会う課題・問題ひいては悲劇といったものは、ただそれぞれの事情に基づいてなんとか善処しようと生きている人間同士の摩擦によって起きます。仮になにかしらの悪意がそこに見えたとしても、自分がそれに相対して正義だという認識は明確に間違っています。

「暴力で勧善懲悪を遂行する物語」の最大の有毒性は、「正義と悪」の二元的な概念にあると言えます。
物語がユーザーに敵対者を完全に悪として描写することで、簡単に善悪を分ける単純な世界観を提供し、現実世界における複雑な問題や摩擦を簡略化しています。

現実の社会では、個々人が持つ事情や背景によって行動や意見が異なるため、単純な善悪の判断では対処しきれない事態が多く存在します。しかし、勧善懲悪の物語が提示する善悪の二元論は、現実世界で適用できない場合が多く、かえって対立や摩擦を拡大させる可能性があります。

4. まとめ

とは言え、僕自身は、勧善懲悪をテーマにした物語に毒されてしまっているようで、そういった物語が消える日を簡単には想像できません。

暴力も勧善懲悪も、現実世界を簡略化したデフォルメであり、子どもがエンターテイメントを楽しむきっかけとしては、かなり優れたかたちなのかも知れません。むしろ、その構造の中で、敵キャラクターに一定の人間性を与えたり、敵キャラクターの死を避けたり、また暴力以外の解決方法を模索するなどの工夫は既に始まっており、これを今後も継続していく可能性が高いのではないかと感じています。

しかし、これも古いメディア環境で育った僕の意見に過ぎず、むしろ暴力も勧善懲悪も撤廃するような動きを新世代の方々が起こせるのであれば、その果てに今の僕らが想像できていないような、子どもでも楽しめるエンターテイメントの新しい王道を生み出される可能性はあるでしょう。

それによって、子どもたちが多様な価値観や考え方を身につけ、正義の味方と悪者が戦うような物語に頼らなくても、自ら判断し、行動できるようになることは理想的であり、僕たちが「そんなのは無理だ」とか「ドラゴンボールを否定するな」といった主張を声高にする必要はどこにも無いはずです。

アンパンチを含む暴力的な表現が問題視される一方で、歴史的に暴力で勧善懲悪を遂行する物語が根強い人気を持っていることから、子どもたちがそのような物語を見なくなる日は容易には訪れないでしょう。しかし、教育の在り方や情報提供の方法が変わることによって、子どもたちが新しい価値観や考え方を学ぶ機会が増えることを、期待できる老人になっていきたいものです。