両親がコロナに感染して、犬を預かった話:前編

この度、両親がコロナに感染してしまったんですが、その時に起きた出来事がやたら心に残ったので書き留めておきます。

2021/04/06:両親がコロナ感染した

珍しく出社をした日。
先週感染が判明した父親に続き、その時点では陰性と診断されていた母親も実はコロナに感染していた事が判明した。誰が感染源だとか、誰が悪いだという、我々からすると不毛な感情をぶちまけるMessageに辟易としたが、今回ばっかりは心配する気持ちの方が圧倒的に強かったので、イイ感じにその部分だけシカトして、弟と一緒にMessage上で必死ではげました。
そして、弟と俺に同時に送っている事が理解できていないであろう母から、「君のところで、トイ預かってくれない?」とのアジェンダが爆誕した。君ってどっちだよ。

トイは、俺たち兄弟が実家を出た途端に飼われ始め、この世で最も安直な名前をつけられたトイプードルで、母親の中では俺たちの末弟という設定になっている。彼と初めて会ったのは10年ぐらい前だった。犬を買ったという事をまったく知らずにふらっと実家を訪ねたら、まるでそこにいるのが当たり前であるかのように、母親に抱かれていた。
「はじめましてー。卓馬おにいちゃんでしゅよー。」というウザい絡みがあまりにキャッチーだったので、このエピソードはよく友達に話した。そのせいか、このシーンは明確に覚えている。
俺は、小学生時代からずっと実家で動物を飼うのに反対していた。理由としては、ウンコをするからとか、自分が散歩やエサやりをサボりそうだからというのもあるのだが、単純に愛する対象が増えてその対象に死なれるのが嫌だったというのが一番大きいと思う。
それから20年ほどして、反対する人間が家からいなくなると同時に、母親はサクッと念願を叶えた。ホームセンターの一角で安売りされていたそうだ。

母親の人生は、このあたりから大きく変わった。
それまでの俺の母親というのは、自宅でピアノ教室を長年やり続けてきた他に、自らの力量を見誤りソロリサイタルを自費で開催し見るも無惨な酷い演奏を披露したり、昭和歌謡バンドを結成して数十名の素人メンバーを率いて老人ホーム慰問をおこなったり、そのバンドで600人規模のワンマンライブを成功させたり、何故か急に英語塾を開催したりと、色々言いたい事はあるがパワフルな実行力については尊敬できるものだった。
それが徐々に、トイという犬に愛情のすべてを注ぐおばあちゃんになっていった。色々時期が前後するところもあるが、彼が実家に来た事が、母親の人生を落ち着いた色合いに変えていったのは間違いないように思う。客観的に、母親がなだらかにスローダウンしていく様は、あるレベルで理想的な老後に向かっていたように見えた。それ以来の10年程度、うちの両親は、交互に隙間なくベッタリと、どんな時でも必ず夫婦どちらかはトイを溺愛できる時間割を組んでいた。

元々、犬も猫も全く好きではなかった俺だが、たまに実家に帰るたびに、さして変化しない彼の姿を見るのはなかなか悪くないと感じていた。

両親が入院した事で、そんなトイを俺たちが何とかしなきゃいけないというのは、俺も弟もすんなり受け入れていた。幸いにして俺は2年前に、弟は先月、それぞれ実家の近くに引っ越していた。だが、いかんせん2人とも動物を飼った経験が無い上に両者ともに0才児を抱えた多忙な家庭である。
母親からは「とりあえずお兄の家は庭があるでしょ?犬小屋買って、そこにつないどいてくれれば大丈夫だからさ」あ、俺のことだったか。「今は1日に3回ぐらい散歩してるけど、君らはそんなに無理だと思うので1日1回でもやってくれれば御の字だよ!」まあ具体的にやらなければいけない事がそんなに多いわけではなさそうだし、なにより母親に心労の種を作りたくなかったので、とりあえずまかせろと即答した。

2021/04/08:トイが家に来た

朝一でホームセンターに行き、犬小屋とエサを買うのは少し楽しかった。その後、母親が部屋から出てこないよう指示をした上でトイを迎えに行った。そう指示したので当然なのだが、実家のリビングは嘘のように静かで、彼はそこのテーブルに置かれたカゴの中でポツンとおとなしく座っていて、それは少しだけ異様な光景に感じた。
動物を飼った事のない人間は、話が通じるはずのない動物に話しかけるという行動をあまり取らない。しかしこの時ばかりは全く物音のしないリビングで、それなりにトイに話しかけていた。
「よろしくな」「お前おとなしいな。利口だな。」というようなことを言ったと思う。

自宅に戻り、買ったばかりの犬小屋に入ってもらい、買ったばかりの長めのリードにつなぎ、エサをあげ、水をあげ、それなりに飼い主らしい行動をした事に納得感を得た上で在宅仕事に臨んだ。
夕方に急に雷が鳴り、雨が降ったので慌てて室内に入れた。嫁によろしく伝えた上で仕事に戻ったが、0歳児と1歳児を抱える家庭に彼が加わるのは、いささか難易度の高い話だということがここで分かった。
ただでさえ年子の乳幼児を抱えた家庭というのは、とんでもなくカオスな状況である。どちらかに構えばもう一方が嫉妬して泣き出す。ここに、24時間体制で甘やかされてきた彼が加わるのだ。彼が足元に随時付きまとったことにより、嫁は晩飯を作ることもできなかったし、しばらくの間下の子は泣き止むきっかけも掴めなかった。
雨はすぐにやんだので、トイにはもう一度犬小屋に戻ってもらった。

その頃、母親から病状が良くないとのMessageが来た。「もう覚悟を決めた。私の貯金は兄弟で半分ずつにしてくれ。2人が独立して結婚して、孫まで見せてくれたおかげで良い人生だった」というような内容が添えられていた。
なにごとも感情的でオーバーに捉え、オーバーに表現する母親の発言に対し、俺は常に半分に聞こえるフィルターをかけているのだが、さすがにこのメッセージはこたえた。

2021/04/09:事件が起きた

朝6時に起きた時点で、トイは庭でワンワン吠えていた。近所迷惑になりそうだというのもあるのだが、やはり何かしらネガティブな感情があるのだろうと思うといたたまれなくなり、ちょっと早めに散歩に連れて行く事にした。これが、単独では人生初の犬の散歩になる。
彼は自らルートを先導してくれた。ここで右に曲がる、ここは真っ直ぐ進むとハッキリとした意思表示をしてくれた。信号ではしっかり立ち止まった。あまり犬を知らない俺は、その的確で迷いの無い行動に少し驚いた。
数分そのルートに従って歩いた時点で、2km弱離れた実家に最短ルートで向かっている事に気づいた。俺の家に来たことなど何度かしか無いし、その時は母親の自転車で来ている彼が、何故その道を記憶しているのか分からないが、そこから数十分で実家の玄関まで到着した。
そして、実家の玄関前でお座りをしたまま、一歩も動かなくなった。
どれだけなだめても、テコでもその場を動かず、はっきりと寂しさを表情に出していた。

この時、誰もいない実家の前で「行こうぜー」「そこには母ちゃんいないんだよ」と彼に話しかけた時に、自分の母親が死んでしまうかもしれないという強烈な事実を初めて実感したように思う。漫画だったらここで「母ちゃん、戻ってこないかも、、、知れないんだぜ。。」と言って泣くシーンだろう。実際そういう心境だった。
仕方なく、抱っこして自宅まで帰ってきた朝9時の段階で、俺の気持ちはわりかしドン底っぽいところまで落ちた。

その後、業務の隙間を縫って「犬 飼い方」みたいな情報をネット検索した俺は、ここで初めてトイプードルを外飼いしてはいけないという事を知る。「あのババア!」と口に出した。室内飼いされがちな犬だということは知っていたが、外飼いしてはいけないはっきりとした理由があることは全く知らなかった。
その瞬間もトイは吠えていた。

これはまずいので、ランチ休憩の時間に嫁と相談を進め、嫁の弟さんに預かってもらう算段をつけた。しかし、その旨を母親に話すと、あからさまに嫌そうだった。もともとこの10年ぐらい、人の意見を素直に受け入れることが全くできなくなってしまっていたので、ある程度こうなることは予想していた。「全く知らない人のところだとかわいそうだからさ、だったら実家に置いて、あんた達が交代でエサあげてくんない?」とのことだった。

それもどうなのかと思ったが、母が決めた事ならそれに沿ってやるしかないと思い、話を進めている最中に、珍しく嫁が激しめに俺の部屋をノックした。
「トイがいなくなっちゃった!」
猛ダッシュで犬小屋に行くと、昨日自宅用に買ったばかりの長めのリードの紐が千切れていた。その様は、彼が抱えている寂しさや激情を物語っているようにすら見えた。

中編へつづく