30年ぐらいファンをやってるレッチリを、東京ドームで見て気づいた事

僕は、30年ぐらい前からレッチリを第一位のフェイバリットバンドとして挙げていて、その間レッチリにいろんな事を思ってきたせいで、だいぶこじらせている。

自分がレッチリをこじらせているということに気づいたのは、去年2023年のことだった。僕が東京ドーム公演に行かなかったのに対して「え?だって一番好きって言ってませんでしたっけ?」みたいな反応を、僕より一回りほど若いレッチリファンから目をキラキラさせながら言われた。それに端的な回答ができなかった時に、なるほど自分はもはや一般的なレッチリファンとは言えなくて、多くの説明を必要とするこじれを抱えているんだという自覚を持った。
思うところあって、今月の東京ドームには2万円もの大金をはたいて足を運んだが、それも大した期待をしていたわけではなかった。しかし、結果的には期待を大きく超えるような満足感があった上に、発見があった。

そのこじれと発見について説明してみる。

オールドファンがそんなにはしゃがない理由

それほど期待をしていたわけじゃないというのは、なにも僕だけじゃないと思う。オールドファンの多くは、それぞれ色んな理由でレッチリにニュートラルな接し方をしていると思うので、それをちょっと説明してみる。

・東京ドームというステージ

今月の発見のひとつだが、東京ドームの音響は昔より良くなっている気がする。ドームの構造が変わったわけではないだろうから、おそらく音響の技術が向上したんだろうと思う。割とコンスタントに東京ドームでライブを見ているが、回を重ねるごとに良くなっている。要するに昔は酷かったということだ。僕は、20年ぐらい前にジャミロクワイを見に行って、16ビートが右から左から違うタイミングで反響してくるのが気持ち悪くて途中で帰ったことがある。ミスチルみたいな歌物だとそんなに気にならないが、グルーヴを腹に喰らうようなタイプのバンドは、東京ドームには合わないと思う。
音響的に楽しめないだろうというのが、そんなにはしゃがない理由のひとつ。

・レッチリという稀有な変化をしたバンド

レッチリを日本の芸人に例えるなら僕は出川哲郎だと回答する。
彼らは今でこそ世界有数の人気を誇るモンスターバンドだが、90年代初頭はキワモノのイメージが強く、クラスの友達にも共感してもらえるようなバンドではなかった。そして出川の現在の人気同様、こんな事になるとはみんな思っていなかった。

当時の既存の価値観は「歌が上手くて声が高くてギターソロの速弾きが最高で、良いメロディ」みたいなものだったのに対して、レッチリはバカみたいに暴れるステージングとかメロディの良さをかなぐり捨ててグルーヴだけで勝負しているところが珍しくて、オールドファンはそんな亜流なバンドを愛し始めたのだ。90年代にレッチリファンを公言していた奴らはみんなひねくれ者だった。

最近のファンには信じられないかも知れないが、レッチリにとって黄金期とも言えるカリフォル〜2枚組の頃に、僕のバンド仲間の多くはレッチリから少し距離を置き始めた。ステージでバカみたいに暴れる、グルーヴだけで勝負してるバンドではなくなったからだ。「もうレッチリは死んだなー」と言っていた仲間も複数いた。
僕は最新作までちゃんと聴いてる真面目なファンだが、それでもやはりレッチリ=Can’t Stopみたいな認識は未だにどうも馴染まない。

最近のタフじゃなくなったレッチリをドームで見るぐらいなら、100人〜5,000人のハコで他のタフなバンドを見た方が満足感が高いという感覚は、小箱でライブを見まくってきたバンド仲間にとっては割と普通の認識だと思う。僕も割とそう思う。

オールドファンは、もうちょい狭いハコでもうちょいクレイジーなレッチリが見たい。
そしてそれはもう叶わないと知っているので、あまりはしゃがない。なんなら興味すら失っている場合も多い。

レッチリが変化した理由

今回、ひとつの気づきというか、仮説が生まれたのが、レッチリがキワモノでなくなっていった理由について。
飽くまで仮説に過ぎないし、感覚的なものなのでレッチリ本人ですら否定も肯定も完全にはできないものだと思うが、勝手に僕の中でスッキリ腹落ちした感覚があった。

・とっくに大御所かと思いきや、成長株だった

キワモノとは言ったものの、レッチリは90年代当時からフェスでトリを務めるビッグバンドだった。
それが故にあんまり認識できてなかったが、どうやらレッチリはどんどんワンマンの箱のサイズを上げていたようだ。ライブの集客が伸びているということだ。彼らは1999年のCalifornicationが最高セールスのはずなので、人気に翳りが出てるとまでは思っていなかったが、ライブの集客がどんどん上がり続けていた事なんてあんまり認識できていなかった。

日本の一例だけ取りあげるのもなんだかなと思って、ChatGPT 4oに聞いてみたが、やはり世界各国でキャパを広げているようだった。

時期場所キャパ
イギリス2000年代初頭Brixton Academy, London約5,000人
最近の例Wembley Stadium, London約90,000人
オーストラリア2000年代初頭Sydney Entertainment Centre約13,000人
最近の例ANZ Stadium, Sydney約83,500人

単純に大箱が物理的に増えたとか、大箱でまともな音響が出せるようになったという部分もあるかもしれないが、レッチリは今になってなお集客を増やしていた。とっくに日本でも人気があると思っていたが、20年前は単独で述べ10万人を動員することはできなかったのだろう。

これが気づきのひとつ。

・箱のサイズに適した楽曲とムード

そんな僕が結果的に大箱のライブでとても満足をしてたシーンについて。
「Black Summer」を聴いていた時に、見事な照明もあって東京ドームというロケーションに完璧にマッチしてると感じた。それは僕が小箱で何百回と体感してきたライブの面白さとは少し意味合いが違っていて、巨大な空間と巨大な音楽が自分たちを浮遊させてくれているような、ロマンティックな心酔だったかなと思う。こんなにも良い曲だったかと思った。Black Summerだけではなく、EddieとかHard to Concentrateとか、ちょっと地味だなと思っていた曲ほど東京ドームというシチュエーションでは映えていた気がする。

新宿ロフトと川崎チッタと幕張メッセと東京ドームでは、当然出音が全然違う。そして、その出音に最も適した楽曲というのも明らかに違う。僕自身はメッセやドームで演奏したことはないが、100人ぐらいの小箱から1,000人ぐらいのキャパのホールで演奏し始めた頃に、どうも自分の音がしっくりこないという経験をしたことがあった。その程度の規模であっても、適切なギターの音作りというのは変わってくる。映える曲も変わってくる。

この日のレッチリは、完璧に東京ドームにマッチしてた。完璧だった。
要するに、レッチリは丸くなったんじゃなくて、どんどん巨大化していく会場のサイズにアジャストしていたのかもしれない。最前列の50人が作り出すモッシュピットを動かす音楽と、ホールで5万人に思い出を与えるような音楽はやっぱり全然違う。

思えば、ポップになった時期にオールドファンが離れる様は、U2とも似ている。巨大なステージに立ち続ける中で、作曲する段階でも自然とその空間の感触が体に染み込んでいて、スタジアムに最も適した曲を作るようになっているのだとしたら、それは理解しやすい。レッチリも、そういうフェーズにいるんだろうなと思ったら勝手にすごく腹落ちした。